どうも、こんにちは。音ハコの管理人のこれちゃんです。
さて、今回はジャパレゲの歴史についてご紹介していきたいと思います。
ジャパレゲはどのようにして発祥し、どのように発展していったのか?元サウンドマンである筆者が丁寧に解説していきます!
ジャパレゲが好きな人はぜひ最後までご覧くださいね!
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目次
レゲエとは何なのか?
画像参照元:https://ux.nu/gxoY2
ジャパレゲを知る前に、まずは知っておいて欲しい事があります。
それは「Reggae(レゲエ)」という音楽についてです。
レゲエは他の音楽に比べて歴史が浅い音楽です。できてまだ何十年位しか経っていませんからね。
そして、レゲエは「宗教の音楽」という事も念頭においてください。そこが他のジャンルにはない特徴なんです。
レゲエは「ラスタファリ運動」という宗教思想を音楽にのせて歌っています。ラスタの一番の目的は黒人のアフリカ回帰。そして人種差別の撤廃です。
ラスタとレゲエの関係性についてはコチラの記事で紹介していますので、ぜひご覧になってみて下さい。
よく、「ボブ・マーリーはレゲエの神様」なんて言いますよね?あれは比喩でもなんでもありません。まさしく神様なんです。
ボブ・マーリーはレゲエという音楽にのせてラスタの思想を歌っていました。ラスタにおける神は「ハイレ・セラシエ」ですが、レゲエという音楽における神は「ボブ・マーリー」なんです。
しかし、ボブ・マーリーは38歳という若さでこの世を去ってしまいます。彼の死後、全世界でラスタの人口は10分の1にまで落ち込んだとも言われています。いかに影響力があったかよく分かりますね。
そして、彼の死後に流行ったのが「ダンスホール・レゲエ」と言われるレゲエです。ダンスホール・レゲエとレゲエは厳密には少し違います。
ダンスホール・レゲエは裏打ちのリズムこそレゲエですが、テンポも早く、そしてコンピューターを使った打ち込みのトラックを主流としていました。
ラスタの教えを歌った歌もありますが、昔のレゲエに比べてラスタ感は薄まっていったのです。それがダンスホール・レゲエとレゲエの大きな違い。両者は同じように感じますが、厳密には違うものなのです。
そして、レゲエとジャパニーズ・レゲエも違います。ジャパニーズ・レゲエとはダンスホール・レゲエを日本語化したものだと思っておいてください。
これを知っているだけでも、かなりのレゲエ通ですよ!
ジャパニーズ・レゲエの歴史を知ろう!
以上がレゲエの概要になります。
では、いよいよ本題。ジャパニーズ・レゲエの歴史について知っていきましょう。
レゲエの歴史は遡れば1960年代からスタートします。当時ジャマイカで流行した音楽「スカ」がレゲエの始まりです。
スカから「ロックステディー」になり、そこから「レゲエ」に発展し、「ダンスホール・レゲエ」ができあがりました。
では、ジャパレゲの歴史はどうなんでしょうか?
ジャパレゲの歴史は意外と古い?
ジャパレゲの歴史は今から40年ほど前、1980年代にまで遡ります。
80年代と言えばボブ・マーリーの影響が強く、全世界でレゲエが流行していた時代です。そんな時代にレゲエに魅了された2人の日本人がいました。
一人が「NAHKI」ジャパレゲの歴史を語るうえで欠かすことができない人物です。
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ジャマイカで活躍した日本人アーティスト
画像参照元:https://ux.nu/oSoCd
NAHKIさんは昔からのレゲエ好きなら知らない人はいない位有名な人ですね。
この人はかなり偉大な人で、1980年代に単身ジャマイカに渡り、パトワ語(ジャマイカでの公用語)を使ってレゲエディージェイをしていました。(ディージェイについてはコチラの記事で解説していますので、ぜひご覧になってみて下さい)
また、ジャマイカだけでなく、ニューヨークでも活躍していたようですね。
そして、彼の曲は逆輸入のような形で日本でもリリースされていました。
まだ日本にレゲエという文化が完全に広まっていない時に単身で海外に渡り、そして日本人としての存在を見せつけたNAHKIさん。まさしく偉人ですね。
この人がいなければ、ジャパレゲ界の発展は大きく遅れていたかも知れません。
初めて日本語で歌い始めたアーティスト
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NAHKIさんはパトワ語を用いたDJをしており、日本語での歌は歌っていませんでした。基本的に海外で活躍した人ですからね。
そして、先程レゲエに魅了された人は「2人いる」と言いましたね?そのもう一人こそが日本語でジャパレゲを歌い始めたアーティスト。
その人の名前は「Rankin Taxi(ランキン・タクシー)」。彼の行動がジャパレゲの歴史を大きく変えるのです。
ランキンさんは1983年にジャマイカで開催されたフェスを見てレゲエにドハマり。帰国後、サラリーマンをしながらクラブでレゲエDJを始めます。
NAHKIさんのように、パトワ語でDJをする文化は当時の日本にも少しはあったようです。しかし、日本語でレゲエをするという文化はありませんでした。
そんな中、ランキンさんは日本語でレゲエを歌い始めるのです。まさに「ジャパレゲ」が始まった瞬間といえるでしょう。
ランキンさんがジャマイカに行かなければ、レゲエDJを始めなければ、日本語で歌い始めなければ、今のジャパレゲはなかったかも知れません。それ位偉大な行動なんです。
この2人の偉大なアーティストによって、ジャパニーズ・レゲエという音楽の扉は開かれたのです。
今や日本はレゲエ大国!
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ボブ・マーリーが活躍し、レゲエが大流行を見せた70年代、その時から日本はレゲエが大好きな国でした。
当時ボブ・マーリーは日本でツアーをするんですが、確かアジアでボブ・マーリーが来たのは日本だけだったと思います。(誰か詳しく知っている人がいれば教えてください)
70年代からレゲエが大好きな日本人。80年代になるとジャパレゲが生まれて、更に日本人のレゲエ好きは加速していきます。
そして、日本のレゲエを語るうえでもう一つ欠かせない要素があります。それは「サウンド」です。
サウンドはいわば他ジャンルにおける「DJ」のような存在ですね。DJをレゲエでは「サウンドマン」や「サウンド」「サウンドクルー」と言ったりします。
日本はレゲエ大国としてだけでなく、サウンド大国としても知られています。
中でも有名なのが「MIGHTY CROWN」ですね。この人たちのお陰で日本はジャマイカや諸外国からも「レゲエ大国」として認められています。
MIGHTY CROWNはサウンドの世界大会で何度も優勝をおさめています。これは並大抵の事ではありません。一度優勝するだけでもありえない位のレベルなんです。
それを何度も優勝している訳ですからね。彼らの実力は段違いですよ(笑)
僕は昔ジャマイカに行ったんですが、行く先々でジャマイカ人にこう言われました「お前は日本人なのか!?ならマイティーを知ってるか?」と。
そりゃもう、あんた以上に知ってるよ!って感じですけどね(笑)ジャマイカ人は僕が日本人だと分かると口々に「マイティー」の名前を口にしていました。いかに彼らに認められているかが分かりますね。
ジャパレゲはサウンドと共に進化する
今、ジャパレゲは落ち目なジャンルですね。昔はいたる所で耳にしましたが、今はなかなか聞く機会がありません。
しかし、音楽には流行がありますからね。これは仕方がない事なのかも知れません。いずれ、またレゲエの波がくるでしょう。
そして、ジャパレゲはサウンドと共に進化しています。
今、日本はジャパレゲアーティスト以上にサウンドマンが多かったりしますからね。そして、マイティー以外にも海外で活躍しているサウンドマンが大勢います。
昔は世界で活躍しているサウンドと言えばマイティーしかいませんでした。しかし、今はバリアもいますし、ジャーワークスもいます。フジヤマだって忘れてはいけません。
そういったサウンドマンと共にジャパレゲのアーティストも進化しています。お互いがお互いに良い影響を与えているのです。
両者が相互作用しあって、更なる進化を遂げる事を楽しみにしましょう。
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まとめ
いかがでしたでしょうか?
以上がジャパレゲの歴史になります。
ジャパレゲの歴史は遡ること1980年代からスタートし、NAHKIさんとランキンさんの両者の影響によって拡大していきました。
今やジャパレゲアーティストは沢山いますね!そして、同時にサウンドマンも沢山います。
これからもレゲエの更なる発展を祈りましょう。